提言〜にっぽんの未来にむけて その1
半年ぶりの書き込みです。
ブログをまもなく閉鎖しようと思います。
その前にここ数日で集中的にアップします。
読んでくれる人がいたら、うれしく思います。
これからアップする「にっぽんへの提案」
を前にかなりの長文ですが、
そこにつながる考えを綴らせていただきました。
このことは実はこの半年間、苦しもがいたことでもあります。
古来より人間は自然と向き合い、対峙して生きてきた。人知が及ばない自然の猛威に影響されながらも、一方で自然に対し畏敬の念を持ちながら人間は自然の一部 として暮らしてきた。人はひとりで生きていけない。支え合って生きている。個人は家族を作り、仲間を集め、村を作った。自分たち家族が食べる食料は自分た ちで獲り、皆で支え合って作物を育てた。命の糧であり生きていく上に一番大事な食料と生活が密接につながる関係にあった。そして食料とつながる大切さを心 から理解し、食料に感謝して生きてきた。
し かし今の時代は違う。分業化された現代社会はすべてにおいて「つながり」が希薄になり、また多くの人が住む大都会ではそこに住む人の命の糧「食料」は作ら れず、農村部がそれらを作る役割を担っていくようになった。作る地域と食べる地域は分離し、食べる地域である都会では、食料とのつながりの大切さを心から 感じることができづらくなっていた。そしていつしか「食料」は「食べ物」というカタチで「物」として捉えられるようになった。「物」はお金で取引され、物 はお金でつながりを作れるようになった。本来ならば都 会の人たちの食料を農村部が作ってきたその役割を考えた場合、都会を農村部が支えていると言えるはずだ。しかし都会に住む人たちの中に「農村に支えられて いる」という意識はほとんどない。それは農村から入ってくる食べ物と交換にお金を払っているからだ。食べ物はお金でつながっているという意識は、食べ物は 農村・農家とつながっているという意識を薄めていった。「お金=食べ物」は対等であり、いや「お金>食べ物」という意識が間違いなくいまの社会に存在して いる。人や食べ物が集まってくる、東京や大阪などの大都会。お金を払えばどんな食べ物も得ることができる時代になった。
人の命はお金では買うことはできない。”当たり前のことを”何を言い出すのだ。と思われるだろう。しかし「食料」も「人」と同じではないのか?と。「工業製 品」などの「物」ならお金だけで得られることに何の疑問も生じない。しかしその食料である「野菜」「魚」にも人と同じく命がある。そして食料は、人間が生 きていく上で命の糧であるのだ。「食料をいただく」とは、命をいただくこと。人は他の動植物の命と引き換えに生き続けることができる。だから、いただいた 命に感謝することが必要なのだ。感謝する心を持たずして、お金があるからとどうして命ある「食料」を手に入れることができるだろうか。また命の糧である 「食料」を生み出すために、農村や漁村では、人知の及ばない大自然との厳しい戦いが常にある。一年かけて育てた作物がたった一度の台風で壊滅したりする。 努力しても報われないことも多くある、そんな想像をこえる苦労が農業、漁業といった現場には今なお存在するのだ。自然と対峙し食料を生み出している農家や 漁師といった「作り手」を大切な存在と想い、支えられているという感謝の気持ちを持ってほしい。食料は「物」ではない。食料には「命」があり、それを生み 出す農家や漁師には「心」がある。だからお金だけではなく、心でつながることを大切に考えたい。
人はひとりでは生きていけない。完全な自給自足生活をするような人間以外は、人はひとりでは生きていない。皆で支え合って生きている。他者を思いやる気持ち を持ち、大自然の恩恵に支えられているという価値観を現代社会にもう一度取り戻したい。そのための仕組みをつくることがいま取組むべき課題だ。そしてその ためにはまず食べ手と作り手が出逢い、つながる必要がある。そのための手段が現在進めている「農村ホームスティ」なのだ。2008年から始まり、昨年 2010年は713名を受入れたこの取組みでは、都会の子どもたち(現在は大阪の高校生主体)を農家や漁師の家に2〜4名ずつ1〜2泊の生活体験をさせて いる。短い時間だが、参加する子どもたちは、食料の作り手とのふれあいで食や命、人とのつながりを経験する。都会では「心のつながり」が希薄だということ を象徴するかのように、多くの子どもたちはふれあった農家との別れ際に涙し、別れを惜しむ光景が随所に見られた。そして戻った後も手紙のやりとりなどの関 係を農家との間に作る子も出はじめている。ここで芽生えた「つながり」をさらに本質的な「心のつながり」そして農村への感謝の気持ちの醸成につなげ、その 想いにきちんと応える農村の未来を次のステップとしてつくることがこれからはじまる取組み「食の絆再生プロジェクト」の大きな役割である。
「農村ホームスティ」を通じて、農家も変わりはじめている。それは協力してくれた農家のこんな一言に表れている。「この子たちのために、俺らももっと頑張らな きゃなあ」農家と都会の子どもとのつながりは、都会の子どもたちだけに「気づき」を与えていない。同時に作り手「農家」にも「都会の子どもたちのため に!」という意識を醸成しはじめた。この新たな取組みを経て、命の糧「食」を生み出す営み=農業、漁業の価値と役 割を誇りに想い、農村に住むことに胸を張る「作り手」が今以上に登場することを願いたい。また農村振興、後継者問題を考えた場合、地域の子どもたちが生ま れ育った農村に対し、夢と希望を抱ける仕組みをつくることも大事な要素になってくる。作り手も食べ手を想い、食べ手に支えられているという感謝の意識を育 み、より安全な作物を作っていこう!命の糧「食」をこれからも都会に住む人たちのためにも作り続けていこう!そう思える価値観も必要だ。作り手と食べ手 は、互いに感謝しあい、支え合う、そんな相互補完の関係にあるはずなのである。
命の糧「食料」を担う地域の発展は、国にとっても大きな課題だ。様々な施策を国も考え実施している。現在はそのひとつとして、六次産業化を行いはじめた。消 費者ニーズに合わせた高付加価値作物や商品の開発と販路の開拓が大きなテーマとなっているが、その取組みの実施を行う前に先に述べたプロジェクトが目指す ような新たな価値感(心のつながり・感謝の気持ち・支えられているという意識)の創造を行うことが必要だと考える。それはなぜか?それは消費者ニーズを突 き詰めていくと、それは大多数が住む大都会のニーズに行き着く。そしてその都会のニーズこそ、まずは意識を変える必要があると考えるからだ。その理由を考えた時、まず本文の冒頭の一文を再度読み直していただきたい。
「古来より人間は自然と向き合い、対峙して生きてきた。人知が及ばない自然の猛威に影響されながらも一方で自然に対し畏敬の念を持ちながら人間は自然の一 部として暮らしてきた。」しかし時代は進み、人間は身を委ねていたその自然の一部としての位置づけからの脱却を考えた。そして “人知が及ばないという自然からの脅威から逃れよう”、”計画通りに行かない不便さを取り除こう”、”自然に影響されず努力したら報われる社会を目指そ う”と努力を続けてきた。その結果、自然界と対局的な位置づけであり、人間が住むことを第一に考え、住み良い場所「都会」を築き上げた。科学の進歩は様々 な文明の利器を生み出し、利便性は一層追求され、不便さは徐々になくなっていく現代の都会生活。インターネットなどの便利な手段の登場とお金の存在で様々 な「つながり」を作り出してきた。従来は生産現場でしか食べられないような食べ物もインターネットで簡単に手に入れられ、ボタン一つで都会にいながらにし て、作り手が住む農村ともつながることができるようになった。
し かしこのつながりには大きな欠点があった。それはこのつながりは、自分の都合に合わせて行うことができる大変便利な手段の先にあることが皮肉にもその原因 だった。つまり「つながる」ことの意味をはき違える結果を作ってしまったのだ。”ひとりでも生きていける、そんな価値観を持つ人たち” ”誰の世話にもな らず、自分や家族だけのことを考えて生きていく人たち” ”手段として様々なつながりを活用し、都会だけで生活していると錯覚する人たち”。都会で完結し ていると感じられてしまうこの「つながり」が現在ある価値観を都会の人たちに作ってしまったのだ。
思い出してほしい、人は他の動植物の命と引き換えに生き続けることができ、命の糧「食料」を生み出す農家や漁師の支えが人々の命を明日につなげていることを。農家や漁師に支えられて生きていることを。皆 が誰かに、社会に支えられ生きている。ひとりで生きていけないことは、怖いことでも恥ずかしいことでもない、当たり前のこと。そして誰もひとりでは生きて いないのだ。そんな価値観の醸成は、人に安らぎを与え、ひとりで生きていくことを目指そうとしているが故に都会で発病している鬱などの心の病から解放する 処方箋にもなり得るのだ。
あらためて言いたい。「人はひとりで生きていくためにつながるのではない。」「人はひとりでは生きていけないから、つながる必要があるのだ。」
自分を支えてくれている人たちに感謝し、つながってくれた人、命に感謝し、生きていくこの価値観こそ、いま真っ先に手に入れるべきことなのだ。
もし、この新たな価値観の醸成なしに、現在ある「不便さを排除し、ひとりでも生きていける」そんな価値観が前提となってしまって、「都会ニーズに合わせた高付加価値作物や商品の開発と販路の開拓」が行われたらどんなことになるのだろうか?実際農 家や漁師たちもより多くのお金を得るために多くの購買者がいる都会のニーズを把握することを目指し、マーケティングという術を使い始めている。都会に住む 消費者ニーズを把握し、そこに照準を絞り、商品を開発し、販路を開拓していくことを国も後押ししているし、目前に迫る自由貿易の流れはこれをさらに推し進 めることになるだろう。しかし現時点でその取組みを最優先で行うことに、疑問を抱かざるを得ない。「農村に支えられている」なんて意識を育めない今のこの 価値観のままで、売れるからといってその価値観に合わせることが本当に未来の農業、漁業のためになるのか?命の糧を生み出す農村の存続に本当に有効なのか?
将来的に考えると農家などの作り手が食べ手である都会の人を想い、そのニーズにあった商品を生み出し作っていくことになんの矛盾もない。当然そうすべき で、六次産業ももちろん今後推進すべき大切な事業だ。しかしいまは将来的に効果あるこれらの事業を実施する前にするべき価値観の見直しがあるのだと考える。
最優先すべきは、新たな価値感の醸成、いや古来より特に日本人が大切に守ってきた価値観の再生だ。その価値観の土台の上に現代社会が歴史と月日をかけて培っ てきた文化や手段を築き上げていくべきだと考える。勘違いしてほしくないのは、インターネットなどの手段を否定している訳ではないということ。素晴らしい 文明の利器を使う前提として、大切な価値観を醸成する必要があるということなのだ。
人はひとりでは生きていない。皆で支え合って生きている。他者を思いやる気持ちを持ち、大自然の恩恵に支えられているという価値観を北海道十勝から築いていきたい!農家・漁師などの「作り手」と「食べ手」、言い換えれば都会と田舎、その互いが互いを認め合い、尊敬し合い、支え合う社会。その先には、心の通った絆社会が未来に待っていることを信じて。